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万葉集 巻13 3221

 投稿者:おいけあん 御池庵   投稿日:2010年11月30日(火)11時23分56秒
編集済
   万葉集 巻13 3221

冬木成 春去来者
朝尓波 白露置
夕尓波 霞多奈妣久
汙瑞能振
樹奴礼我之多尓 鴬鳴母

冬籠り 春さり来れば
朝には白露置き
夕には霞たなびく
珍づの振る
木末が下に鴬鳴くも

ふゆこもり はるさりくれば
あしたには しらつゆおき
ゆうべには かすみたなびく
うずのふる
こぬれがしたに うぐいすなくも

 現代語訳
冬の気配は もう どこにもないよ
さあ 春がやって来たんだ
朝(あした)には 霜(しも)に代わって白露(しらつゆ)がおき
夕(ゆうべ)には 狭霧(さぎり)に代わって霞(かすみ)がたなびく
新しい芽吹きが始まり 尊い営みが蘇ったのだ
うぐいすの囀(さえずり)りも聞こえてくるよ

・「籠る」こもる=内にあって外へ出ない 活動を停止する
 「冬」が主語 「籠る」が述語
 「冬籠り」=冬は過ぎ去った (冬が籠に入ったように見えなくなること)
  つぎにくる活動的な「春」「張る」「晴る」を導入する言葉になっている

・「去り来れば」=さあやって来た「去」は趨勢をあらわす「遠ざかる」の意ではない

・「汙」う お=いままで「汗か」と 多くは解読されてきた
 「瑞」ズイ たま みづ=しるし めでたい たま みずみず(みづみづ)しい
・「汙瑞」うづ=「珍」うず 高貴で美しい 尊貴 珍しいほど優れていること 名詞

・「能」の=能力が高い 良くできる 優れている 強意を表わす「~こそ」
 「振」ふる=たつ おこる ゆれうごく ふるいたつ
  物が生命力を発揮して、生き生きと小きざみに動く意
 「能振る」のふる=成長する 伸び立つ

・「汙瑞能振」うづのふる=(春になり)新たな生命の躍動が始まった
 「生命の躍動の始まり」は「尊く尊厳なこと」であること
 「白露が置き」「霞がたなびき」「枝が日ごとに勢い良く芽吹く」さまなどを言っている

・「木末が下」こぬれがした=梢の枝えだのこと

(感想)
・この歌の趣意は
 「汙瑞能振」「珍づの振る うずのふる」にある
 待望の「気高い生命の躍動が始まった」「貴い季節が蘇った」
 「喜びの一年が始まった」と詠っている (注1)

・この一首は
 「霜(しも)」「狭霧(さぎり)」の冬から
 「白露(しらつゆ)」「霞(かすみ)」の春に 「朝」「夕」の大景を詠み
  ついで「草枝の芽吹き」「鳥のさえずり」 身近な「春の燃え立つ息吹き」を歌う
  ”躍動の!「春」への賛歌!!”

(注1)
(万葉集 巻6 973)
 食國  遠乃御朝庭尓  汝等之  如是退去者  平久  吾者将遊  手抱而  我者将御在  天皇朕  宇頭乃御手以  掻撫曽  祢宜賜  打撫曽  祢宜賜  将還来日  相飲酒曽  此豊御酒者
 食す国の  遠の朝廷に  汝らが  かく罷りなば  平けく  我れは遊ばむ  手抱きて  我れはいまさむ  天皇我れ  うづの御手もち  かき撫でぞ  ねぎたまふ  うち撫でぞ  ねぎたまふ  帰り来む日  相飲まむ酒ぞ  この豊御酒は
 をすくにの とほのみかどに いましらが かくまかりなば たひらけく われはあそばむ たむだきて われはいまさむ すめらわれ うづのみてもち かきなでぞ ねぎたまふ うちなでぞ ねぎたまふ かへりこむひ あひのまむきぞ このとよみきは

 万葉集 巻13 3221  平成22年3月に訓読しました

http://oikean.web.fc2.com/manyou-hiroiyomi/manyou-hiroiyomi-index.html

 
 

万葉集 巻一 5  6 

 投稿者: おいけあん 御池庵  投稿日:2010年10月27日(水)19時50分36秒
編集済
  万葉集 巻一 5  軍王

幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌
讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時
軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌

霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受
村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者
珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能
山越風乃 獨座 吾衣手尓
朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母
草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土
網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

霞立つ 長き春日の 暮れにける
別づきも知らず むらきもの 心を痛み
鵺子鳥 うら嘆げ居れば
玉たすき 懸けのよろしく
遠つ神 我が大王の 行幸よし
山越し風の 独り居る 吾が衣手に
朝宵に 還らひぬれば 大夫と 思はゆる我も
草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに
綱能浦が 海人処女らが 焼く塩の
思ひぞ焼くる 吾が下心

かすみたつ ながきはるひの
くれにける わづきもしらず
むらぎもの こころをいたみ
ぬえこどり うらなげおれば
たまだすき かけのよろしく
とおつかみ あがおおぎみが
みゆきよし やまこしかぜの
ひとりおる あがころもでに
あさよいに かえらいぬれば
ますらおと おもわゆるあも
くさまくら たびにしあれば
おもいやる たずきもしらに
あのうらが あまおとめらが
やくしおの おもいぞやくる
あがしたごころ

(現代語訳)
夕霞が棚引き 長い春の一日が暮れたよ
分かれることも知らないまま群れているという 群肝(むらぎも)の心が
私は その心が痛むのだ
夜に ぬえこ鳥が物悲しく鳴くのを聞いたりすると

たまだすきを懸ける その掛けるという言葉のとおり
国内外の安泰発展が懸けられ 祈念される
遠く高く神にまします 大王の 行幸(みゆき)も荘厳に執り行われた

行幸の地から
ひと山越しに通う風は勢いを増し
ひとり 家族と別れ来て供奉(ぐぶ)する私の衣の袂(たもと)を吹き揺らして
朝な夕な そちらこちらと往(ゆ)きつ還(もど)りつする

風が 行(ゆ)きつ戻(もど)りつするように 私も ふるさとへ還り着いたら
また 丈夫(益荒男 ますらお)と称(たた)えられることだろう
そう思っている私でも
いまは 草枕の旅の途中なので
故郷の妻へは 心からの思いを遣(や)るほかは術(すべ)がない

綱能浦(あやのうら)の 海人処女らが藻塩(もしお)を焼くように
ただ 焼ける思でいるだけ これが私の本心なのだ

(言葉の解説)
・「霞み立つ」=霞が立ち上る 霞が棚引く
 微細な水滴が空中に浮遊し 朝夕の景色がぼんやり見える
 古くは、春秋ともに霞とも霧ともいった

・「わづき」=区別する 手段になる 「枠づく」 「技づく」
 「わづきも知らず」分けること分かれることを知らない
 「群る(むれる むらがる)」に掛かる言葉

・「わづき」=区別する 手段になる 「枠づく」 「技づく」
 「わづきも知らず」分けること分かれることを知らない
 「昼とも夜とも区別が分からないような夕暮れ」
 「いつまでも分かれないで群れ(群肝 ぬえこ鳥のむれ)ている」ことの両意

・「群肝の」むらぎもの=(枕詞)臓腑に心が宿ると考えられたことから 「心」にかかる

・「心を痛み」=つらくおもう ぬえこ鳥が鳴くのを聞いて辛くなること

・「玉襷」たまたすき=たすきの美称 襷を掛けることから「かける 掛 懸」の枕詞

・「懸け」かけ=神掛りになり神の託宣(神諭 神誨 神託)を受ける
 「懸けのよろしく」神諭を正しく聞いて遵う
  行幸の目的が この「懸け」であったということ
 「国家の安泰 発展」「内外の安定」等を祈願されたのだろう

・「遠つ神」=遥か遠く高い神々 歴代の天皇 「おほきみ(大君)」にかかる枕詞

・「行幸能」みゆきの=みゆきよし 行幸(みゆき)は立派に行われた
  天皇は 舒明天皇十一年(639)十二月十四日に「伊豫温湯宮」に
  舒明天皇十二年(640)四月十六日 夏四月に「伊豫廐坂宮」に行幸されている
  このとき 讃岐国「一ノ宮」にも 立ち寄られたのかも
  行幸の「ゆき」の語音は 次句の「(風の)行き来」を導き出している

・「山越し(やまごし)」=山を越えること 山を越した向こう側
 「山越しの風」は 山を越して遥かに通い吹く風
  大王の威力を具現するかのように風が 行幸の地から山々を越えて吹き渡る
  威風が 伊予 讃岐の地に往還(ゆきき)する
  讃岐と伊予は隣国同士になる

・「独り居」=大王の行幸に随行して来ている
  妻 家族を故郷にのこしての単身の任務であること

・「衣手(ころもて)」=ころも 袖
 「衣手に(ころもでに)」は「ひだ」「ま」「なぎ」「かへり」などにかかる枕詞

・「還(かへ)らひぬれば」=「(風は自由に)行き来している」
 「(大王の行幸に随行して来ているが)帰郷したら」の両意がある

・「かへらひ」=「帰る」ラ行下二段活用自動詞未然形「かへら」に
  動作 作用の継続を表わす助動詞「ふ」が付いた複合語
 「還(帰)らひ」ハ行四段活用自動詞「かへらふ」の連用形

・「大夫(ますらを)と」=一人前の男子と認められる
  益荒男(ますらお 壮夫)として尊敬される

・「思はゆる我も」おもはゆるあも=(益荒男と)称賛される私である
 「思は」ハ行四段活用自動詞「思ふ」の未然形
 「ゆる」受身 可能 自発の助動詞「ゆ」の連体形 「ゆ」は大和奈良時代の語

・「思へる我も」おもへるわれも=(益荒男を)自負する私だが
 「「思ふ」ハ行四段活用他動詞の命令形「思へ」に
  完了結果の継続を表わす助動詞の「り」がついたもの
 (上古 助動詞「り」は 用言の命令形に接続していたらしい)
  私は 多くに採用されているこの説をとらない

・「草枕(くさまくら)」=草を結んで枕として野宿すること
 「旅」「結ぶ(むすぶ ゆふ)」「かり(仮)」「つゆ(露)」などの枕詞

・「思ひ遣る」=偲ぶおもいを送る

・「たづき」=たつき 方便 手付き 手段
 「たづきを知らに」は 手がかりがない 手段がわからない

・綱能浦(あやのうら つののうら)
 「綱能浦(あやのうら) 綱能浦(綱の字 拾穂本類聚抄等に網と作るは誤りなり)
 (旧本に「あみのうら」と訓(つづ)るは誤れる本につきたる訓なればいふにたらず)
  こは和名抄に 讃岐国鵜足郡津町(つの)とあり そこの浦なるべし」
 (萬葉集古義)

・「海人処女(あまをとめ)」=漁をする娘 蜑(あま)のわらわめ
 (古代 蜑の民(あまのたみ)は 山賎(やまがつ)とともに
 「呪力を持つ特殊な人々」という意味があったといわれる)

・「焼く塩」=浜辺で製塩すること 藻塩(もしお)を焼く
 「焼き焦がす」の言葉から「(恋慕に)身を焼き焦がす」意に比喩される
  このとき 燃(た)く火が情趣あるものとして 古くから詩歌に詠まれている

・「思ひぞ焼くる」=妻に恋焦がれて焼ける思い

・「吾がしたごころ」=私の心中の想い 本心

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万葉集 巻一 6   軍王

舒明天皇が讃岐(さぬき)国安益(あや)郡に行幸あった時
軍王(いくさのおおきみ)の作った長歌の 反歌

反歌

山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
山越しの 風を時無み 寝る夜掛け 家なる妹を 懸けて偲びつ
やまこしの かぜをときなみ ぬるよかけ いえなるいもを かけてしのびつ

(現代語訳)
山越しの風が 時刻なぞかまわずに自由に吹き通うのを 羨ましく思っている
そんなとき よく考えるのだ
離れたこちらから 夜の寝る時間を掛けて 心に懸けて
故郷の家で待っている 愛しい妻のことを偲ぼうと

(言葉の解説)
・「風を」=「かぜは」「を」指示原因理由の間投助詞 目的格を作る格助詞ではない
 (風こそが 自由勝手に吹きまくるから そのために 云々 というようなこと)

・「自」ジ なんじ=自分 おのれ(一人称) おまえ なんじ いまし(二人称)
 「己」おのれ 「汝」なれ なんじ と同義語になる
  このほかに 「自」には「独」ひとり
 「従(より から 起点)」「因(よる ちなむ 原因)」の意もある
  ここでは「な」と読んだ

・「 時自見 」ときなみ=ときなみ 時なく 時刻をかまわず 常時
 「なみ」「無み」=ない状態のこと
 「無し」ク活用形容詞の語幹に「み」状態を表わす接尾辞がついたもの

・「風を時無み」かぜをときなみ=風は時刻をかまわず いつも自由に吹き渡ること

・一説に「 時自見 」は「ときじみ」と読む
  非時 不時などとも書き 時ならずという意という
 「時」「自」「見」は 「時」時刻「まじ」否定の助動詞「み」は語を名詞化する助詞で
  万葉集 巻一 26 にも 同様の作例があるが
 「しじみ じじみ ひじみ」等は 「音」からみて良い解読ではない

・「不落」かけ=おちづ「落ちない」は「掛かる」「掛けてある」という意味に読む
 「掛け」は カ行下二段活用の他動詞「掛く」の連用形
  五句目の「懸」を意識して 同じ表記の重複を避けたのだろう

・「寝夜不落」ぬるよかけ=「寝るべき夜を(他のことに)使って」という意
  夜をとおして 故郷の愛しい妻のことを思い続けること

 ・現在 定訓と考えられているものの一つに
 「寝る夜おちず」と訓(よ)んで 寝る毎晩毎晩欠かさずにの意という
 「落ち」は「もれること」「おちど」のこと 「夜間も忘れないで行う」の意
  実行しないと「(夜が)更けない」「(夜のとばりが)落りない」でもないらしい
  やはり「ぬる夜おちず」は無理な「不自然な解釈」といえるだろう
  字余りもない「ぬる夜かけ」と素直に読むのがいい

・「家在妹乎」いへなるいもを=「故郷の家で 私の帰りを待っている妻を」の意
 (「妹在家乎」なら「家(へ)にある妹を」とも訓めるのかなあ?)

・「懸而」かけて=心をかける あれこれ思いやる 心から離さずにいる

・「小竹櫃」しのびつ=「小竹」しのたけ「櫃」ひつ どちらも「訓読みの万葉仮名」
 「偲のふ」過ぎ去ったこと 離れている人などをひそかに思い慕う 恋いしたう

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右檢日本書紀  無幸於讃岐國  亦軍王未詳也

但山上憶良大夫類聚歌林曰
記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午
幸于伊与温湯宮[云々]
一<書> 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集
時勅多挂稲穂而養之 乃作歌 云々 若疑従此便幸之歟
(日本書記 巻23)
 舒明天皇十一年(639)十二月壬午《十四》十二月己巳朔壬午
幸干伊豫温湯宮

(現代語 解説)
右は 日本書紀から検(かんが)えて 讃岐国には行幸されたことがない
また 軍王については詳(つまび)らかでない

但し 山上憶良大夫が「類聚歌林(るいじゅうかりん)」に書いている
日本書紀に言っているのは
 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午に
「伊豫ノ温湯ノ宮」に行幸があったこと
一書によると このとき 「宮の前」に「二樹の木在り」
この二樹に 斑鳩(イカルガ イカル)比米(シメ)の二種の鳥が多く集まってきた
時に勅(みことのり)があって たくさんの稲穂を掛けてこれを養われた
これこそ このときに詠まれた歌ではなかろうか
まさしく この兆候(きざし)のあとで (讃岐へ)行幸があったのではなかろうか

万葉集 巻一  5  6   平成22年10月 再訓読し掲載しました

http://www.geocities.jp/oikean/ron/manyou/manyou-9-160-655.html
 

万葉集 巻一 27 

 投稿者: おいけあん 御池庵   投稿日:2010年10月24日(日)20時31分12秒
編集済
   いままで 万葉集の解説の本を数十冊読んでも 専門家の本音の解説がほとんどいただけません (みうちだけでけんきゅう しろうとはじょがいということらしい たいまんごうまんやなあ)
それではと 我流で始めました とっても難しい 解読のやり方が分からない
 みなさん アドバイスをくださいね
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万葉集 巻一 27   大海人皇子 天武天皇

天皇幸于吉野宮時御製歌
天武天皇の 吉野の宮に御幸のときの御製歌 (注1)

淑人乃  良跡吉見而  好常言師  芳野吉見与  良人四来三
淑き人の 良し跡吉く見て 好しと言ひし 芳野吉く見よ 良き人然来見
よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとしきみ

(現代語訳)
皇后が
優れたところだ 吉祥の地だと見られて
好ましいと褒めておられる
芳しい野という名を持つ この吉野を 愛でて尊ぼうではないか
秀でて選ばれた皇子たちよ さあ しっかりと来て見ておこうよ

(語句の解説)
・「淑」=シュク よい しとやか 澄む 水が清らかに澄む
 「淑人」=徳のある人 立派な人 主として婦人にいう
 天武天皇の皇后 第四十一代 持統天皇のこと

・「良」=リョウ よい もともと優れている まこと
 「良跡」よしと=優れた所 よい地

・「吉」=キツ キチ よい めでたい 幸い 縁起がよい
 「吉見而」よくみて=めでたく思う 縁起の良いことと判断する

・「芳」=ホウ かおり かんばしい はな
 「芳野」よしの=「芳」の名をもつ野 吉野 地名(奈良県にある)

・「吉見与」よくみよ=めでたい所をしっかり見ようではないか
 「見(み)」サ行上一段活用他動詞「見る」の連用形
 「与(よ」いろいろな語に付いて強め 語調を整える終助詞
 「見る」の命令形「見よ」ではない

・「良人」よきひと よきと=すぐれて選ばれた人々
 ここでは 天武天皇の六人の皇子たちのこと

・「四来見」しきみ=さあ やって来て見ようではないか
 「四(し)」然り そのように さあ 呼びかけの言葉 "so"
 「来(き)」自動詞「来(く)」の連用形
 「見(み)」他動詞「見る」の連用形
 通常は 文の区切りや文末は終止形 命令形で終わるものだが
 ここでは 身分の高い「皇子達」に対して命令形を避け 連用終止にしている
 それによって 余韻 余情を持たせる意もある

・従来 定説のようになっている
 「四来」を「よく」と読むのは 誤り
 この作品の前後の歌を例に見ても 集 巻一 巻二 巻三の全作品を見ても
 「四」を「よ」と訓読する例が皆無であり すべて「し」と読んでいること
 歌趣(歌の流れ)からみても 「よい」"good"の解は不適切であることなどです
 十分に検討して訂正をすることが必要なのかも

(感想)
・「よい」という言葉の使い方 繰り返しが この作品の大きな特徴で
 唱歌して とても心地よいところになっている

・「淑き人の 良し跡吉く見て 好しと言ひし」前の一句 二句 三句は枕言葉にあたり
 「芳野吉く見よ 良き人然来見」後ろ四句 五句が歌本体になる

・吉野は 詠み手(作者 天武天皇自身)が皇位に就くことができた「原点」である
 「好ましい」「幸いな」地である 「よしの(吉野)」という言葉の力 地の縁によって
 天武皇統の「長い安泰」を願って詠んでいる

・そういう観点からみると この一首は
 一般に膾炙されている 単純な「吉野賛歌」という訳にはいかなくなってくる
 身内でかたまって権力の維持をやってゆこうということなのかしら?

・語り言葉 歌謡として この一首をみるとき
 歌唱による「呪術性」の解明と理解が とても重要なことと考えます
 最重要なことかも知れない
 古代の「信仰」「思想」「民俗」などなど 総合的なアプローチが必要になるでしょう
 これらは とても複雑で難しい課題です

・「よい」と読まれる語には
 「嘉」「佳」「義」「吉」「好」「克」「秀」「熟」「実」「善」「能」「美」「良」「令」・・(まだまだありそう)
 これらを どう訓じ分け 意味とるかも難しことですね

(注1)
「日本書紀 巻二九)
 天武天皇八年(679)五月甲申《五》五月庚辰朔甲申
幸于吉野宮
 乙酉《六》
天皇詔皇后及草壁皇子尊 大津皇子 高市皇子 河嶋皇子 忍壁皇子 芝基皇子曰
朕今日與汝等倶盟于庭 而千歳之後欲無事 奈之何
皇子等共對曰 理實灼然
則草壁皇子尊先進盟曰 天神地祗及天皇證也 吾兄弟長幼并十餘王
各出于異腹 然不別同異 倶随天皇勅 而相扶無忤
若自今以後 不如此盟者 身命亡之 子孫絶之 非忘非失矣 五皇子以次相盟如先
然後天皇曰 朕男等各異腹而生 然今如一母同産慈之 則披襟抱其六皇子
因以盟曰 若違盟 忽亡朕身 皇后之盟且如天皇
 丙戌《七》
車駕還宮
 己丑《十》己丑
六皇子共拜天皇於大殿前。
 (天武天皇八年 吉野の宮へ 行幸のときに
  六皇子が 同盟 協力して 天武の皇統を揺るぎないものにする誓いをした)

・万葉集 巻一  27   平成22年10月訓読しました

http://www.geocities.jp/oikean/ron/manyou/manyou-9-160-655.html
 

万葉集 巻二 156 157 158 

 投稿者: おいけあん 御池庵   投稿日:2010年10月22日(金)22時03分45秒
編集済
  (ご指摘もあり 解読一部改正を含め再掲します)

万葉集 巻二 156 157 158  高市皇子

十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
「十市皇女」が亡くなったとき「高市皇子」が詠んだ挽歌

156
三諸之 神之神須疑 巳具耳矣 自得見監乍共 不寝夜叙多
三諸が 神が神杉 御供御身を 我得見監つつ 寝ぬ夜ぞ多ほき
みもろが みわがかみすぎ みぐみみを あがえみみつつ いねぬよぞおおき

 現代語訳
神が宿る三諸山の 三輪の神杉のように
清清(すがすが)しく近寄りがたい姿を 一度見てからは
皇女の立場を理解し しっかり見守り支えることに決心していたのでした
それでも 偲ばしく思うときもあり
眠られない夜も多かったものでしたよ

(語句の解説)
・「三輪の神杉」~すぎ=「透ぎ」「清ぎ」「素ぎ」などの同音語を連想させる
  清々しい 清楚な

・「已(巳)具耳矣」みぐみみを=「御供御身を」「御供身身を」と訓んでみた (注2)

・「御供」みく みぐ=神に供える 神に仕える 供奉(ぐぶ)する
 「巫女 神子(みこ)」=神意を聞き伝え御供物などの仲介をする 供奉する役

・「身」み=「ひとりの人間」をいう 人 個人
 「御身(みみ)」=御方 人を尊称して言う 「身身(みみ)」ひとりひとりのこと

・「御供御身」神に仕えるような清潔な暮らしをしている人のこと
  十市皇女が「清らかで近寄りがたい様子」であったことをいう

・「自得」あがえ=じとく みずから(身づから)さとる 内心から納得する
 「あが」われ おのれ 一人称代名詞
 「え」ア行下二段活用の他動詞「得(う)」の連用形
  ひとりでさとり楽しむ みずから満足する

・「見監」みみ=「見」「監」の二語で熟語化させている いろいろな「見方」をする
 「見」(単純に)見る 自然に見えてくる
 「監」(意識して深く)見る かんがみる 戒める 鑑にする
  目を離さないで(深く)見守ること

・「見監乍共」「見監乍々」みみつつ=立場をさとり十分に見守り続ける

・「自得見監乍共」あがえみみつつ=見守ることで満足する
  十市皇女の立場を理解し しっかり見守ることを心に決める
  この歌では 思いが越して 偲ばしい気持ちで見つめる 深く魅かれている
  プラトニックラヴ シークレットラブともいえる

・「自得見監乍共」あがえみみつつ=見守ることに満足する
  ここでは 十市皇女の立場を理解し しっかり見守ることを心に決める

・「巳具耳」みくみみ 「見監」みみ は 意識して「み」音を重視して訓(よ)んでみた

・「十市皇女」と「高市皇子」は 天武天皇の子で 姉と弟にあたる
  十市皇女は「大友皇子(天智天皇の子「壬申の乱」に敗れた)」に 嫁し
  皇子没後に吉野にうつっていた (注1)

(感想)
・この歌の主意は
 「自得見監乍共」にあるとおもう
 「壬申の乱」により悲哀をうけさせた 姉の「十市皇女」を
  弟の「高市皇子」が支えようと努め 見守ることに満足を感じていたこと

・「み」音を多く使って「荘重で呪術的な感じ」と「独特の調子」がでているとおもう
 「三 神(み) 御 身 耳 見 監」
・一連の三首の歌にも 同様に「音や言葉を重ねる表現」が効果的に使われている
  157「ゆう(木綿) ゆう」や「m音」「kg音」  158「やま(山) やま」の「m音」

・当時もこのくらいの「言葉の工夫」をして歌に詠むことがあっただろうと考えてみた

・一般に 和歌を鑑賞するとき 男子なら野太い声で朗々と声唱したのだろう
  みいーもろがー
  (みいーもろがー)
  みわーぬかみすぎー みくみいーを あがえみいつつー ねーぬよぞおおきー
                   (あがえみいつつー ねーぬよぞおおきー)
    ↑
  なんて! 我流で!やってみている! 歌趣にあわせておごそかに!
  (「み」音の繰り返しのところに面白さを感じてる・・)

157
神山之  山邊真蘇木綿  短木綿  如此耳故尓  長等思伎
三輪山が 山辺真麻木綿 短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき
みわやまが やまべまそゆう みじかゆう かくのみからに ながくとおもいき
(現代語訳)
三輪山の宮の 山辺の真っ白な麻幣(あさぬさ)は その幣は短かったのだろうか
このように短かったとは思わないで もっと長く伸びているものと思っていたのです
皇女も 同じように 短く早くお隠れになってしまったものだ

158
山振之  立儀足  山清水  酌尓雖行  道之白鳴
山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
やまぶきの たちよそいたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく
(現代語訳)
山吹の花が 山を美しく飾っているよ
その神山の清水を汲んできて 蘇(よみがえ)らせたいと思うのだけれど
そこへ行く道が分からないのだ

(注1)
(日本書紀 巻29)
 天武天皇二年(673)二月癸未《廿七》二月丁巳朔癸未。《廿七》
天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。
先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。
次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。
次妃新田部皇女。生舎人皇子。
又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。
次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。
次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。
其三曰田形皇女。
天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。
次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。
次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。
其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女
 天武天皇七年(678)四月丁亥朔 夏四月丁亥朔
欲幸齋宮卜之。癸巳食卜。仍取平旦時警蹕既動。百寮成列。乘輿命蓋以未及出行。
十市皇女卒然病發薨於宮中。由此鹵簿既停不得幸行。遂不祭神祗矣。

(注2)
書写 表記について
「巳」シ み
「已」イ すでに やめる はやい はなはだ のみ
「己」キ コ おのれ つちのと
この三字は混同しがちで
「古事記」「日本書紀」「万葉集」に限っても
書写はもちろん現行の活字表記物にも混同が少なくない

・万葉集 巻2 156    平成20年9月訓読
 

万葉集 巻一  25  26 

 投稿者: おいけあん 御池庵   投稿日:2010年10月21日(木)23時26分43秒
編集済
  万葉集 巻一  25   大海人皇子 天武天皇

天皇御製歌

三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留
間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如
隈毛不落 念乍叙来 其山道乎

み吉野が 深み我がの嶺に
時なくぞ 雪は降りける
間無くぞ 雨は振りける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間なきがごと
隈もみな 思ひつつぞ来し
その山道を

みよしのが みみあがのねに
ときなくぞ ゆきはふりける
まあなくぞ あめはふりける
そのゆきの ときなきがごと
そのあめの まあなきがごと
くまもみな おもひつつぞきし
そのやまみちを

(現代語訳)
吉野の 遠く近くに連なる山々には
季節を問わずに 雪は降って来る
途切れる間なく 雨は降って来る
ちょうど雪は 季節を構わず降るように
その雨が 途切れる間なく降り続くように

私は 山陰でも曲がり道でも
何処でもかしこでも 止むことなく
いろいろの思いを回らしながら
その山道を 近江から吉野へ
何もかも避けて やって来たものだった

(語句の解説)
・「三吉野之」みよしのが=「み」は美称の接頭語 「吉野」奈良県南部 「が」所属を表す助詞

・「耳」みみ=みみやま「深山(みやま)」奥深く遠くの山々 「深み」ふかみ みみ
 「我」あが=あがやま「我山」身近くの山々 「我が」は連体詞 私の

 「隈毛不落」くまもみな=「不落(おちづ)」は「落ち漏れが無い」こと「すべてみな」と解した

・「思ひつつぞ来し」おもひつつぞきし=いつも念頭に置いてやって来たものだった
 思ひつつ(名詞) ぞ(係助)前の言葉を強める
 「来(き)」カ変自動詞「来(く)」の連用形 「し」は過去を表わす助動詞「き」の連体形
 「~ぞ~し」は係り結び

・そのほかの語句の解説は 26番歌に掲載しました

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万葉集 巻一  26   大海人皇子 天武天皇

(天皇御製歌)或本歌

三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽
雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎

み吉野の 深み我が山に 時なくぞ 雪は降ると言 間なくぞ
雨は降ると言 その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと
隈もみな 思ひつつぞ来 その山道を

みよしのの みみあがやまに
ときなくぞ ゆきはふるとう
まんなくぞ あめはふるとう
そのゆきの ときなきがごと
そのあめの まなきがごと
くまもみな おもいつつぞく
そのやまみちを

(現代語訳)
巻一 5番歌に同じ

(語句の解説)
・「 時自久曽 」ときなくそ=ときなくぞ 常時に 時刻をかまわず 間もなく
 (万葉集 巻一 6番歌でも言及した通り このページも上にあります)

・「自」ジ なんじ=自分 おのれ(一人称) おまえ なんじ なれ いまし(二人称)
 「己」おのれ 「汝」なんじ と同義語になる
 ここでは「な」と読むのが適当
 「 時自久曽」ときなくぞ=「時無曽」 25番歌と 表記こそ違うが同じ読みである

・いままで定説とされてきた「 時自久曽 ときじくぞ」は
 あえて「とき まじ く ぞ」と複雑化して読む必要がない
 歌としての音感もよくない
 これは 誤解読の可能性が大きいとおもう

・「雪者落等言」ゆきはふるとふ=ゆきはふるといふ
 「雨者落等言」あめはふるとふ=あめはふるといふ

 同様に
 「不時如」は「ときなきがごと」と訓(よ)むのが適当

・「隈」くま=陰る 隠れる 曲(たわんだ)むところ
 山陰や くぼみ 真っ直(す)ぐな道 曲がった道 どんなところでも

・「不堕」おちず=「もれることがない」「おちどがない」のこと
 「すべて」「みな」と読み替えた

・「隈毛不堕」くまもみな=山陰 くぼ地 曲がり道も すべて残らずの意

・「思乍叙来」おもひつつぞく=おもひつつぞくる「思ひつつぞ来る」
 常に 心に掛けながら遣ってきた
 「思ひ」は行四段活用自動詞「思ふ」の連用形 「つつ」動作の並行を表す接続助詞
 「ぞ」指示強意の感動助詞 「く」「来」カ行変格自動詞おの語幹
 「来」は「ぞ」の係の結語になり連体止め「来る」のところ 語数を整えて語幹読みにする

(感想)
・25番歌には「時無曽」「 間無曽」 「時無如」「間無如」に規則的な表記の重複があるのを
 26番歌では「 時自久曽」「無間曽」 「不時如」「 間無如」のように意識して変化をつけのだろう

・この一首は 天武天皇の回想という
 天智天皇後の 皇位継承をめぐっての事件をいう

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右句々相換因此重載焉

右は 句々相換わり 比ぶるに因って 重ねて載すなり

・万葉集 巻一  25  26  平成22年10月訓読し掲載しました

http://www.geocities.jp/oikean/ron/manyou/manyou-9-160-655.html
 

万葉集 巻二 160 161 

 投稿者: おいけあん 御池庵   投稿日:2010年10月21日(木)16時37分48秒
  (質問等もいただたので 整理して 再掲しましす)

万葉集 巻二 160 161 持統天皇

一書曰 天皇崩之時 太上天皇御製歌 二首
いっしょにいわく てんのうかんさりのとき たいじょうてんのうのぎょせいか にしゅ
天武天皇が崩御の時 后の持統天皇が詠まれた追悼の歌 二首

或書物から(引用の歌)
この歌が万葉集に編まれたとき 持統天皇は退位して「太上天皇」の地位にあった

160
燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
燃ゆる火も 取りて包みて 神籬に 入れそ言はずや 面智しなくも
もゆるひも とりてつつみて ひもろきに いれそいわずや もさかしなくも

(現代語訳)
盛んに燃え上がる火でさえ 御手に取り包むようにして 神にお供えなさった
畏れ多くも賢い大王であらせられたことよ
その大王の威光は いつまでもどこまでも陰(かげ)ることがない

・天武天皇は
 例年4月7月に「風神を竜田の立野に 大忌神(水神)を広瀬の河原に」祭らせになった
 ここでは 燃灯(多くの火を燃やし神仏に祈願する行事)が行われた
 「火徳」重視の思想(「火がすべてを清める」また「豊作をもたらす日照と結びつく」)による (注4)

・「取而裹而」=手に取って大切に包みこむ 「幣(みてぐら)」のこと
 「幣」みてくら みてぐら=「御手座」 ぬさ 御幣 幣帛
 手に取り持つものを「依代(よりしろ 憑代)」にして 神が降臨するものと信じられていた
 のちには 神に奉るものの総称をいうようになった (注5)

・「福」=訓よみ「ひもろぎ」 音読み「フク」
 「福地」フクチ=神の住むところ(神仙の地)神籬(ひもろぎ)
 「福」ひもろぎ=神に供える米・餅など 胙
・「福路庭」ひもろきには=「神籬(ひもろぎ)に」=神祭の儀式に 祭壇に

・「入澄」いれそ=「入れ」他動詞下ニ段活用「入る」の連用形 「そ」感動助詞 強く指示する意
 「澄」そ 訓よみの仮名として解読(例「真澄鏡」=真鏡 真十鏡 まそかがみ まそみかがみ)
 「不言八」いはずや=「言わなかったか いやそうではない」反語表現になっている「言ったのだ」
・「入れそ言はずや」=「~そ~や」は係り結び「入れるよう仰せになった」「火焚き神事を命じられた」

・「面智」おもしろし(面聡明)もさかし(面叡智)=何ごとも深く知っているという顕著な面相
 思慮深く相手を圧倒する面立ち 他者と比べ特別に優れているさまをいう
 大王(天皇)や貴人を賞賛することばには
 「畏れ多く賢い」「高照(たかてらす)」「高光(たかひかる)」
 「耳敏(みみさとし みみと)」「雷之声(いかずちのこえ)」などなどがある (注1)

・「男雲」なくも=「なけなくも」の短縮形「ないではない あるのだ」の意(多くの前例に倣って訓読)

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161
向南山 陣雲之 青雲之 星離去 月矣離而
向つ峰山 棚引く雲が 青雲が 星や離らむ 月離れおり
さきつみねやま たなびくくもが あおくもが
ほしやさからん つきはなれおり

 現代語訳
遥かに望める吉野山に 瑞兆の雲がたなびく
この日輪に輝く白雲は 星や月を大きく凌いでいることだ
早くから 大王にふさわしい盛徳を具えられていた皇太弟の大海人皇子さまは
天智天皇後の皇位継承の混乱を避けて吉野へ移られましたが
皇子に心を寄せる人々が集まり 漸く 帝位に就かれたのだった

・「向」さきつ=「向」むかふ むこう そのさき 「つ」格助詞 名詞につき修飾格にする「~の」
 「向こう遥か遠くのところにある(大峰の山並み)」という意味
 (「南山へ向かって 移動する」の意ではない)
 「南山」みなやま なみやま=「峰山」みねやま「山並」やまなみ 奈良県南部の「大峰の山々」
・「向南山」さきつみなやま=「向つ峰山」さきつみねやま
 先の一端にあり 大峰山嶺へ連なる「吉野山」

・「南山」は「吉野山」のこと 「吉野」は大和南部の総称
 天武天皇(大海人皇子)が皇太弟であった時
 帝位を避けて仏門に入り吉野に移られた事を言う (注3)

・「陣雲之 青雲之」=吉野に心を寄せる人々が漸く多くなって 勢いが盛んになってきたこと (注3)
 「青」=草の色 草木のしげるさま 勢いがある
 「青雲」=日の光に映える白雲 「りっぱな徳をそなえ名声の高いこと」「高い位の人物」

・「之」が(格助詞 所属 同格を表す「~の」と同じ意味の場合)について
 考察するところ (いまは 万葉集 巻一 巻二 に限りのことですが)
 格助詞の「之」は「が」と訓読するほうが良いように考えられる
 当時の 歌謡性 呪術性から 鼻濁音の「が」で発声していたのではなかろうか
 (「が」と「の」を なんども読み比べ歌い比べてみて・・)

・「星離去」星やさがらん=星は遠ざかっている
 「星」が主語 「離去」が述語になる 「去」趨勢をあらわす
 「離」は居る位置(格)が違うこと 青雲の明るさとは比較できないくらい劣ること

・「月矣離而」「月離而矣」月はなるのみ 月離れおり=月は離れているしかない
 「月」が主語 「矣離而」「離而矣」は述語になる 「而矣=耳 のみ」限定をあらわす

・「青雲之 星離去 月矣離而」=皇位を「日の御子」「日の御門」「天つ日嗣」と言うように
 天照大神(日 太陽神 皇祖神)の皇統を受け継ぐこと
 大海人皇子が「壬申の乱」を制して 天皇に就かれたことを言う (注3)

・「月 星」は 天智天皇後の皇位をあらそった「大友皇子ら近江がた」の者とも解釈できる

・161 別訓読してみる
(その一)
 「向南」=大王は常に南を向いて座すこと 「高御座(たかみくら)」を譬えている
 「向南山」たかやまに=「高い山」「尊い位置」「格位の高い空間」のことと解釈して
・向南山 陣雲之 青雲之 星離去 月矣離而
 高山に たなびく雲の 青雲の 星や離らむ 月も離れて
 たかやまに たなびくくもの あおくもの ほしやさからん つきもはなれて

(その二)
 「向」むかふ むく いく→い「射」と借音
 「南山」なみやま=なんざん「南山」矢の的を掛ける築地(山形の土盛)「あづち」
 「向南山」いあづち=「射あづち あむつち いくはどころ 的山」は「掛く」の縁語
・向南山 陣雲之 青雲之 星離去 月矣離而
 射南山 棚引く雲の 青雲の 星や離らむ 月離れけり
 いなみやま たなびくくもの あおくもの ほしやさがらん つきはなれけり
 いあづちに矢的を掛けるように 吉野の山々に瑞雲が掛かっている 云々 (ちょっと強引かな)

(その三)
 「向南山」=きたやま(北山)との読みもあるが
 「北」には 単に「方角」を言うだけでなく「背を向けてそむく にげる 寒い暗い」の意味を含んでいる
 この歌を 陰気な北山の夜の「雲 星 月」の情景とするのは
 天武天皇を追悼するという歌趣からみて不適当である

(感想)
・天皇を 高空に映える「男雲」「青雲」になぞらえて
 「天皇の尊厳は どんなときでも 全てのものに卓越している」と詠んでいる
 「男雲」おぐも=雄大な雲 高い空の雲の位置は「大王」の座すところとも解釈できる
・「青雲の輝き(陽の光を受けて真っ白に輝く)」「火炎の明かり」「星の光」「月の明るさ」の
 四種の光源をたくみに詠んでいる

・160は 天武天皇の「優れた治世」を讃え
 161は 天武天皇の「即位の過程」を偲んでいる
・持統天皇(のち太上天皇)が 686年に崩御された夫の「天武天皇」を追悼した歌
 詠み人の「天皇としての地位」「夫を送るという立場」
 「春過ぎて~」と直裁にうたわれる性格がよく現れていると思う

・この二首は
 天皇の御製 ということを考慮する必要がある
 (天皇の発語には「力(呪力)があって 必ず実現される」という絶対権の考え) (注2)
・「福路庭 入澄不言八面」 この部分を
 「ふくろには いれといわずやも」と読んで「役小角(えんのおづぬ)の妖術や手品」とか
 「青雲之 星離去 月矣離而」を
 「雲と星月の位置 当時の天体の迷信」に関係付ける解釈があるが
 これらは 全く取るに足らない「不適切な解釈」と言える
・「大王」「天皇」は 国の「最高権力者」「最終意志決定者」として
 「妖術」や「迷信」など市井の「雑多な思想」からは 遠く「離れた地位にある」こと (注2)
 そのような歌を「詠んではいけない」 回りが「詠ませてもいけない」
 まして「集に編むことはありえない」

(注1)
(日本書紀 卷9)
 氣長足姫尊 神功皇后
 足仲彦天皇二年(己酉一九三)
立爲皇后。幼而聰明叡智。貌容壯麗。父王異焉。
 (わかくして さとくさかしくいます みかほははなはだうるはし かぞのきみあやしみたまふ
 「あやしむ」=不思議なほど優れていること)

(注2)
(日本書紀 卷9)
 神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰200)春二月。
足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩以爲。知所崇之神。云々
 (仲哀天皇の崩御は 神の託宣を信じなかった祟りである
 天皇といえども神意に従わなければならない
 「大小の事悉く神の意思によって左右される
 神託に従って行動するのでなければ何事も成就しない」
 皇祖から伝わる「天神地祇」をもっとも尊ぶこと 上代の思想)

(注3)
(日本書紀 巻27)
 天智天皇一〇年(671)十月庚辰《十七》庚辰
天皇疾病彌 勅喚東宮引入臥内 詔曰 朕疾甚 以後事屬汝 云々
於是再拜稱疾固辭不受曰 請奉洪業付屬大后 令大友王奉宣諸政
臣請願奉爲天皇出家脩道 天皇許焉 東宮起而再拜 便向於内裏佛殿之南
踞坐胡床剃除鬢髮 爲沙門 於是天皇遣次田生磐送袈裟
 天智天皇一〇年(671)十月壬午《十九》壬午
東宮見天皇 請之吉野脩行佛道 天皇許焉 東宮即入於吉野 大臣等侍送 至菟道而還

(注3)
(古事記 序)
 曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 しきりなる[扁三水旁存]雷應期
聞夢歌而想纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山
人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝
杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 云々
 飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に
 大八洲(おおやしま)御(しろしめ)しし天皇(すめらみこと)の御世(みよ)に曁(およ)びて
 濳龍(せんりゅう)元(げん)を体し せん雷期(き)に応ず
 夢の歌を聞きて業(ぎょう)を纂(あつめ)んことを想い
 夜の水に投(いたり)て基(き)を承(う)けんことを知(しろし)めしぬ
 然れども天の時の未だ臻(いた)らず 南山に蝉(せみ)のごとく蛻(ぬけ)たまい
 人事共に洽(あまね)くして 東国に虎のごとく歩みたまいき
 皇輿(こうよ)忽(たちまち)に駕して 山川(さんせん)を浚渡(こえわた)り
 六師(りくし)は雷のごとく震(ふる)い 三軍は電のごとく逝(ゆ)く
 杖矛(じょうぼう)は威を挙げて 猛士は烟のごとく起こり
 烽旗(ほうき)は兵を耀(かがやか)して 凶徒は瓦のごとく解けぬ
 (序文では 古事記が「天武天皇の修史の計画」に基ずくものであることをいっている
 ここに引用したのは 天武天皇が帝位に就く過程が書かれている部分)

(注4)
(日本書紀 巻29)
 天武天皇五年(676)四月辛丑《四》夏四月戊戌朔辛丑。祭龍田風神。廣瀬大忌神
 天武天皇五年(676)七月壬午《十六》壬午。祭龍田風神。廣瀬大忌神。
 天武天皇六年(677)七月癸亥《三》秋七月辛酉朔癸亥。祭龍田風神。廣瀬大忌神
 天武天皇八年(679)四月己未《九》己未。祭廣瀬龍田神
 天武天皇八年(679)七月壬辰《十四》壬辰。祭廣瀬龍田神
 天武天皇九年(680)四月甲寅《十》夏四月乙巳朔甲寅。祭廣瀬龍田神
 天武天皇九年(680)七月辛巳《八》辛巳。祭廣瀬龍田神
 天武天皇十年(681)七月丁丑《十》丁丑。祭廣瀬龍田神
 天武天皇十一年(682)四月辛未《九》夏四月癸亥朔辛未祭廣瀬龍田神
 天武天皇十一年(682)七月壬寅《十一》壬寅。祭廣瀬龍田神
 天武天皇十二年(683)四月戊寅《廿一》戊寅。祭廣瀬龍田神
 天武天皇十三年(684)四月甲子《十三》甲子。祭廣瀬大忌神。龍田風神
 天武天皇十三年(684)七月戊午《九》戊午。祭廣瀬龍田神
 天武天皇十四年(685)四月丁亥《十二》祭廣瀬龍田神
 天武天皇十四年(685)七月乙丑《廿一》秋七月乙巳朔乙丑。祭廣瀬龍田神
 朱鳥元年(686)七月甲寅《十六》甲寅。祭廣瀬龍田神

(注4)
(「火徳」重視 一例)
「天武天皇 持統天皇」期に 皇族の喪葬の法が「火葬」になった
(以後 影響を受けることとして「殯宮挽歌」が少なくなった
 万葉歌人では ほぼ柿本人麻呂後半の時代にあたる)

(注5)
(日本書紀 巻29 天武紀下)
 朱鳥元年(686)八月辛巳《十三》辛巳 遣秦忌寸石勝奉幣於土左大神
 (686年 弊(みてくら)を土左大神に奉る)

(注5)
(「拾遺集」神楽歌に収載 鍋島本「神楽歌」にもある)
「美天久良波 王加仁波阿良須 阿女仁万須
 止与遠加比女乃 宮乃美天久良 宮乃美天久良」
・弊(みてぐら)は 我(わ)がにはあらず 天(あま)に坐(ま)す
 豊岡姫(とよをかひめ)の 宮(みや)の弊(みてぐら) 宮の弊
・この弊は 私が作ったものではない
 高天原にいらっしゃる 豊岡姫の宮で整えられた弊である
 なみなみならぬ尊い弊であるのだ
 (「豊岡姫」は 「天照大神」のことと解釈されている)
「美天久良仁 奈良万志毛乃遠 須へ加美乃
 美天仁止良礼天 奈津佐波万志遠 奈津佐波万志遠」
・弊に ならましものを すべ神の 御手に取られて なづさはましを なづさはましを
・弊になれたらいいなあ 尊い神の御手に取り持たれ 馴れ纏わりついておられるになあ
 (「まし」は反実仮想の助動詞 「ものを」詠嘆を表わす終助詞)

・万葉集 巻二 160 161   昭和50年ころ訓読したものを 今回整理しました
 

万葉集 巻一  9 

 投稿者: おいけあん 御池庵   投稿日:2010年10月21日(木)08時01分39秒
編集済
  (整理して 再掲します)

万葉集 巻一 9 額田王

莫囂圓隣之 大相七兄 爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
和かりし大己兄 冴ゆけき吾が背子が 偉建ちせりけむ厳橿が本
なごかりし おおあなえ さゆけき あがせこが いたちせりけん いつかしがもと

 現代語訳
この国を安定させなさった親しみ深くなでやかな 偉大なる兄(御方)であり
その澄みわたるような聡明さを みんなが期待している「皇太子さま」は
立派な姿で 尊い方が祀られている「厳橿が本」に立つ決心をされたのだろう

・この一首は 全体が「非略体表記」になっているから
 仮名の順に素直に訓読するのがいいのだろう

・「莫」バク ボ なし ひぐれ くらい おそい
 「囂」ゴウ ガウ かまびすし
 「圓 員」イン ウン エン まる まわり まどか かず(人員)
 「隣」リン となり
 「之」シ ゆく これ この の
・「莫囂圓隣之」なごかりし=「和かりし」「柔かりし」なごやかな 穏やかだ 平穏だ
 「和かり」形容詞ク活用「和(なご)し」の連用形 「し」修助詞
  中大兄皇子らが社会の騒乱を静め国家の運営の安定に努めたことなどをいう (注2)

・「大」タイ ダイ おお おほいに おほきい はなはだ
 「相」ショウ ソウ あい おう たすく
 「七」シチ なな ななつ なの (たくさんの 複数の)
 「兄」キョウ ケイ あに え
・「大相七兄」おおあなえ=「大(おおあ)己(な)兄(え)」「大兄(おおえ)」偉大な兄(男)
 「相(あ)」たすける 補佐する 大臣 摂政 相国の意
 「七(な)」「あな」という言葉かな?「大己貴命(おおあなむちのみこと)」が連想される
  七番目の意とすると詳しくは分からない 当時「大兄」と尊称される人物が数名いた (注3)

・「爪」サウ(ソウ) セウ(ショウ) つめ つかむ かく
 「湯」タウ(トウ) タン シャウ(ショウ) ゆ(ゆげ)
 「気」キ ケ いき
・「爪湯氣」さゆけき=「冴ゆけし」澄みわたるように聡明な
 「冴ゆけき」=形容詞ク活「冴ゆけし」の連体形 第三句「吾瀬子」あがせこに掛かる

・「吾が背子」=みんなが期待しいる人
 「大化の改新」を中心となって行った摂政であり皇太子の「中大兄皇子」のこと (注2)

・「射立為」いたちせり=偉建ちせり 威厳を持って立つこと 「い」は接頭語

・「厳橿之本」いつかしがもと=皇祖 天照太神を祀る (注1)

・「厳橿之本に立つ」とは 天皇に即位し
  天照大神から続く「神誨(神のおしえ)」を聞き従うということ  (注1)

・この歌の主題は「中大兄皇子」の皇位継承が(規定され)期待されていることを言っている
 当時 中大兄皇子は「皇太子 皇嗣」で 斉明天皇を補佐し すでに 国政の中心にあった
 「皇極(斉明)天皇」は早くから直系の「中大兄皇子」が皇位を継ぐことを望んでいた (注3)

・斉明天皇四年(658年)十月十五日 紀の温湯(ゆ 温泉)へ行幸の時
 老女帝が 人々の面前で孫皇子の死に悲泣するという 天皇らしくない様を見て
 額田王は いまさらに 青壮の「中大兄皇子」の 天皇即位(天智天皇)を望んだのだろう (注4)

(感想)
・「相七」あな=「大己貴命 大穴牟遅命(おおあなむちのみこと)」が連想されます
 「大己貴命」神代の出雲の主神 スサノオ尊の子孫
  少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して天下を統治し 後に 国土を
  天孫「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」に譲りたすけた
 「大国主命(おおくにぬしのみこと)」「国魂神」「八千矛神」のこと
・当時「中大兄皇子」は 斉明天皇を補佐する立場にあった
  一首では 皇子を「大己貴命」に準えたのだろう

・この歌の主人公について いろいろ言われているが
 二句に「大相七兄」とあるのは やはり 詠み手が「中大兄皇子」を意識している
 (「相七」の意味はもっと調べると面白そう
 中大兄皇子の「排行」だったりしたら面白い「しかけ」ですね)

・額田王が 一句二句を故意に難解にして詠んだのは
 歌意に「斉明天皇の退位を望む」という不敬なところがあり それを隠すためだろう

・この一首は 難訓歌として これまでにいろいろな解釈がされてきましたが
 鑑賞者として留意がするところは
 額田王が 斉明天皇の一行に「専門の歌詠み」として随行していることです
 天皇に代わって詠むこともある
 それだけに「格調高い解釈」をもって作品をあじわいたいものです
 軽々しい「恋愛歌」や陰気な「鎮魂歌」不明朗な「暗号説」などはなじまない

・「歌謡」には 呪術性がある とくに古代は信仰と結びついたものであった
  万葉の人々の心情 思想 そんなところを 確実に読めたらいいなあ

(注1)
(日本書紀 巻6)
 垂仁天皇二五年(丙申前5)三月丁亥《十》三月丁亥朔丙申。
離天照大神於豐耜入姫命。託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處。
而詣莵田筱幡。〈筱此云佐佐。〉更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。
時天照大神誨倭姫命日。是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。
故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。
則天照大神始自天降之處也。
〈一云。天皇以倭姫命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神。
鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。取丁巳年
 (垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。
遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。
天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。
然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。
是以。今汝御孫尊。悔先皇之不及而愼祭。則汝尊壽命延長。復天下太平矣。
時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主而卜之。誰人以令祭大倭大神。即渟名城稚姫命食卜焉。
因以命渟名城稚姫命。定神地於穴礒邑。祠於大市長岡岬。然是渟名城稚姫命。
既身體悉痩弱以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰。令祭矣。〉
 (一説に 垂仁天皇25年 天照太神を磯城(いき 奈良県)の嚴橿之本(いつかしのもと)に祀り
 神誨(神託 神のおしえ)を 聞き随うことになった
 のち「磯城嚴橿之本」から伊勢に遷され「皇統」の象徴として「皇祖神」を祭るようになった)

(注2)
(日本書紀 巻24)
 皇極天皇四年(645)六月戊申《十二》戊申
~以劔傷割入鹿頭肩~天皇大驚詔中大兄曰。不知所作。有何事耶。
中大兄伏地奏曰。鞍作盡滅天宗。將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。〈蘇我臣入鹿更名鞍作。〉~
 皇極天皇四年(645)六月己酉《十三》
蘇我臣蝦夷等臨誅。悉燒天皇記。國記。珍寶。船史惠尺即疾取所燒國記而奉献中大兄。
是日。蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓。復許哭泣
 (中大兄皇子らが殿中で蘇我馬子らを殺し政治の実権を握り 以後「大化の改新」を行った)

(注3)
(日本書紀 巻24)
 皇極天皇四年(645)六月庚戌《十四》庚戌。
譲位於輕皇子。立中大兄爲皇太子
(日本書紀 巻24)
 孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年(645)六月庚戌《十四》
 天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。《十四》
天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。
中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。
方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。
於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。
策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄〈更名古人大市皇子。〉曰。
大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。』於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。
奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。
解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。』
由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。
于時。大伴長徳〈字馬飼。〉連帶金靭立於壇右。犬上建部君帶金靭立於壇左。
百官臣連。國造。伴造百八十部羅列匝拜。
是日。奉號於豐財天皇曰皇祖母尊。以中大兄爲皇太子。ーー
 (皇極天皇4年(645)天皇聖旨があり 閣僚等の合議により
 孝徳天皇(軽皇子)即位 中大兄皇子が皇太子に就いた)

(654年 孝徳天皇崩御 655年 斉明天皇が飛鳥板蓋宮にて再度即位)

(注4)
(日本書紀 巻26)
 斉明天皇四年(658)十月甲子《十五》冬十月庚戌朔甲子
幸紀温湯 天皇憶皇孫建王 愴爾悲泣 乃口號曰
耶麻古曳底。于瀰倭施留騰母。於母之樓枳。伊麻紀能禹知播。倭須羅■麻旨珥〈其一。〉
瀰儺度能。于之褒能矩娜利。于那倶娜梨。于之廬母倶例尼。■岐底舸■舸武〈其二。〉
于都倶之枳。阿餓倭柯枳古弘。飯岐底舸■舸武。〈其三。〉
詔秦大藏造萬里曰。傅斯歌勿令忘於世
(斉明天皇四年(658) 冬十月の庚戌の朔甲子(十五日)に、紀温湯に幸(いでま)す。
 天皇、皇孫建王を憶(おもほしい)でて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまふ、
 乃ち口号(くちうた)して曰(のたま)はく。
 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(いまき)の中(うち)は 忘らゆましじ
 水門(みつなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり  後(うしろ)も暗(くれ)に 置きてか行(ゆ)かむ
 愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ)

(斉明天皇四年(658)十一月 有間皇子の事件)

(日本書紀 巻27)
 天智天皇即位前紀斉明天皇七年(661)七月丁巳《廿四》七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
 (斉明天皇7年(661)天皇崩御 中大兄皇太子がそのまま帝位を継いだ)

 天智天皇七年(668)正月戊子《三》七年春正月丙戌朔戊子。
皇太子即天皇位。〈或本云。六年歳次丁卯三月即位。〉
 (天智天皇7年(668)中大兄皇子が 正式に 天皇に即位(天智天皇)した)

・万葉集 巻一 9   昭和50年ころ訓読したものを 今回整理しました
 

万葉集 巻二 97 

 投稿者: 御池庵  投稿日:2010年 9月15日(水)18時01分2秒
編集済
  万葉集 巻二 96 97 98 99 100 久米禅師 石川郎女

久米禅師娉石川郎女時歌五首
久米禅師の 石川郎女を 娉ふ時の歌 五首
くめのぜんじの いしかわのいらつめを よばうときのうた ごしゅ

97
三薦苅  信濃乃真弓  不引為而  強作留行事乎  知跡言莫君二  [郎女]
み薦苅る  信濃の真弓  引かずして さりする事を  知ると言はなくに  [郎女]
みこもかる しなののまゆみ ひかずして さりすることを しるといわなくに いらつめ

現代語訳
「み薦苅る信濃の真弓を引く」 この「引く」という言葉の譬えのように
貴方は いままでに「私の気を引いたり誘ったりなさったこともない」
それなのに 私が「お高くとまっていて 貴方をきっと相手にしないだろう」
これは「前から分っていたことだ」などと
勝手に言ったりしないで欲しいものですわ
 (96番をうけて詠んだ一首)

・「み薦苅る」みこもかる=「信濃」の枕詞
 「信濃の真弓」=信濃の国のすぐれた弓 「引く」の枕詞

・「不引為而」ひかずして=引(ひ)か不(ず)して
 (弓を)引こうとしない という言葉に掛けて
 「心を引いたり」「言い寄る」「誘う」などの「恋愛をしかけない」ことをいう

・「作留」さり さる=「さあり」「さある」そうである そのこと
 「さ」物事を指示することば 「あり」「ある」ラ変自動詞(名詞 連体詞化している)
 「強」しふ=無理におこなう 努める する
 「強ふ」ハ行上二段活用の他動詞 「する」サ行変格活用他動詞「す」の連体形
 「行事」こと=こと わざ

・「強作留行事乎」さりしふることを=作留(さり)強(し)ふる行事(こと)乎(を)
  強行する つとめて行う ここではより軽く「する」という程度
 「さりすることを」と訓(よ)んでおきましょう
 「石川郎女が久米禅師を全く相手にしないように振舞う」こと

(感想)
・この一連の歌は 万葉らしくない言葉の遊びの女々しい歌でしたね
 (”益荒男ぶりの「万葉集」”とは言われていますが
  集全体から見ても”そうは思われないところ”が多いように感じます
 「益荒男ぶり」「手弱女ぶり」について再考が これからの研究課題かなー)

・この歌の 三句四句は「漢文+非略体」の表記構造で それが「対」に組んである
 (巻二 156 の訓読の解説を参照してください 下段にあります)

96
水薦苅  信濃乃真弓  吾引者  宇真人作備而  不欲常将言可聞  [禅師]
み薦刈る 信濃の真弓 我が引かば 貴人さびて いなと言はむかも  [禅師]
みこもかる しなののまゆみ わがひかば うまひとさびて いなといはむかも ぜんじ

97
三薦苅  信濃乃真弓  不引為而  強作留行事乎  知跡言莫君二  [郎女]

98
梓弓  引者随意  依目友  後心乎  知勝奴鴨  [郎女]
梓弓 引かばまにまに 寄らめども 後の心を 知りかてぬかも  [郎女]
あづさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも いらつめ

99
梓弓  都良絃取波氣  引人者  後心乎  知人曽引  [禅師]
梓弓 弦緒取りはけ 引く人は 後の心を 知る人ぞ引く  [禅師]
あづさゆみ つらをとりはけ ひくひとは のちのこころを しるひとぞひく ぜんじ

100
東人之  荷向篋乃  荷之緒尓毛  妹情尓  乗尓家留香問  [禅師]
東人の 荷前の箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも  [禅師]
あづまひとの のさきのはこの にのおにも いもはこころに のりにけるかも ぜんじ

・万葉集 巻2 97    平成20年9月訓読

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万葉集 巻二 145 

 投稿者: 御池庵  投稿日:2010年 9月13日(月)16時19分11秒
編集済
  万葉集 巻二 145  山上憶良

山上臣憶良追和歌一首

鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
鳥となり あはれ呼びつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
とりとなり あわれよびつつ みらめども ひとこそしらね まつはしるらん

(現代語訳)
いま 私は鳥になって飛び去ろうとしている
”ああ”と 悲しみ叫んでみる
真実を知ってほしいと振り返ってみるけれど
誰ひとり知ろうとする者はいない
この松だけが知っていることなのだ

・「鳥翔成」とりとなり=鳥となる「鳥になって翔(と)び去る」
 「と」=格助詞 変化した結果を示す
 「成り」なり=ラ行四段活用の自動詞「成る」の連用形
  漢字の意味に則して読むと「飛び立ち 行き去ってしまう状態」
・「死後に 魂は肉体を離れ 鳥になって飛び去り ふたたび戻る事はない」
  古代の信仰で「死ぬこと」「死後の有様」をいう (注1)

・「有我」あはれ ああれ=あわれ 「ああ」感動詞
・「有我」われをしたしむ=「有」には「親しむ」「認め援ける」の意がある
 「謀反の罪で処刑されたけれど 真実を知って正当に扱って欲しい」と願う気持ち
  これの原典は「詩経(中国古典)」にある (注2)
 (ここでは 両意を斟酌した)

・「松」=磐代(いわしろ 和歌山県)の海岸の松
 「磐代の浜松が枝をひき結びまさきくあらばまたかえり見む」は
  有間皇子が捕らえられて 天皇のもとへ連れて行かれる途中に詠んだ歌
  (万葉集 巻二 141)

・この歌の主人公は 処刑直後の「有間皇子」ということになるのだろう (注3)

(感想)
・この歌の万葉仮名表記を見て 最初に気がつくことは
 「漢文訓読」のようなかたちの作品だという事です
 漢字の意味をそのままとりいれた語を「」に入れ 読み下しの送りをつけてみると
・「鳥翔」なり 「有我」よびつつ 「見」らめども
 「人」こそ「不知」 「松」は「知」らむ
 この一首は「漢詩」を読むように解釈するのが良いということになる
 そうすると 「鳥」「翔」「有我」「見」「不知」「松」「知」 は
 漢字は借音するのではなく 意味を活かして訓読することになる

・第一句の「と」と「なり」は軽い「係り結び」になっている
 「係かり結び」言葉を強め 詠嘆の気持ちをあらわし 余韻(余情)を楽しむ
 上古代には 語り言葉や歌謡に「係り結び」の表現が多種あったと推測される

・山上憶良が「有間皇子を追悼」して詠んだ歌
 憶良の「~に代わって詠む」という作風は
 遣唐使に従がって中国に留学した時に体得し
 独特の感性をもって「和歌に活かした」ものといえる

(注1)
古事記 中巻 33段(倭建命の東夷征伐 白鳥御陵)
 於是坐倭后等及御子等諸下到而 作御陵 即匍匐廻其地之那豆岐田而 哭爲歌曰
那豆岐能多能
伊那賀良迩 伊那賀良尓
波比母登富呂布 登許呂豆良
 於是化八尋白智鳥翔天而向濱飛行

(注1)
日本書記 巻7
景行天皇四〇年(庚戌110)十月戊午
ーー時日本武尊化白鳥。從陵出之。指倭國而飛之。ーー

(注2)
詩経 小雅 小旻之什
四月: 滔滔江漢、南國之紀
   盡瘁以仕、寧莫我有
   滔滔(とうとう)たる江漢(こうかん)は 南国の紀(もと 治世の根幹である)
   盡瘁(じんすい)して仕(つか)うるに 寧(なんぞ)我を有(したしむ)ことなし
(文法的な見かた)
「有我」は(動詞)+(目的語)「我有」は(名詞)+(補語)のかたち
そこで 主語を「王(きみ)」とし 否定語の「莫」をつけて読むと
「王莫有我」「王莫我有」は どちらも「きみわれをしたしむことなし」となる

(注3)
日本書紀 巻26
 斉明天皇四年(658)十一月壬午《三》十一月庚辰朔壬午。留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰。天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財。一也。長穿渠水損費公糧。二也。於舟載石運積爲丘。三也。有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報答之曰。吾年始可用兵時矣。
 斉明天皇四年(658)十一月甲申《五》甲申。有間皇子向赤兄家。登樓而謀。夾膝自斷。於是知相之不祥。倶盟而止。皇子歸而宿之。是夜半赤兄遣物部朴井連鮪。率造宮丁圍有間皇子於市經家。便遣騨使奏天皇所。
 斉明天皇四年(658)十一月戊子《九》戊子。捉有間皇子與守君大石。坂部連藥。鹽屋連鯏魚送紀温湯。舎人新田部米麻呂從焉。於是皇太子親問有間皇子曰。何故謀反。答曰。天與赤兄知。吾全不解。
 斉明天皇四年(658)十一月庚寅《十一》庚寅。遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂。是日。斬鹽屋連■魚。舎人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連■魚臨誅言。願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國。坂合部藥於尾張國。〈或本云。有間皇子與蘇我臣赤兄。鹽屋連小代。守君大石。坂合部連藥。取短籍卜謀反之事。或本云。有間皇子曰。先燔宮室。以五百人。一日兩夜。邀牟婁津。疾以船師斷淡路國。使如牢圄。其事易成。人諌曰。不可也。所計既然而无徳矣。方今皇子年始十九。未及成人。可至成人而待其徳。他日有間皇子與一判事謀反之時。皇子案机之脚无故自斷。其謨不止。遂被誅戮也。〉
(658年 斉明天皇一行が「紀温湯」へ行幸のとき
 有間皇子が謀反の罪で捕らえられ 藤白坂(ふじしろさか藤代坂)で処刑された)

・ 万葉集 巻2 145    平成20年9月訓読

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万葉集 巻四 655 

 投稿者: 御池庵  投稿日:2010年 9月13日(月)16時14分27秒
編集済
  万葉集 巻四 655 大伴宿祢駿河麻呂

不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左変
思はぬを 思ふと言えば 天地の 神も知らさむ 村も咎めむ
おもわぬを おもうといえば あめつちの かみもしらさん あれもとがめん

 現代語訳
もし 本気でない恋のように不実なことなら 神もお見逃しにならないし 村のおきても容赦しないだろう

・「邑」は「村」「国(地域の意)」=「家長を中心とした大家族」の集まり 血縁地縁で結ばれた「共同体」「自然村」
  古代社会は この「共同体」が単位で 個人(構成員)は共同体によって守られ縛られ この中でのみ生きていける

・「礼」は「礼節」「おがむ、おさむ、みち・・」=秩序を維持するための規範 きまり 伝統
 「礼器」=礼(れい)は器(き うつわ)とす=礼は生活の方便である と「礼記(中国古典)」にある
・「邑礼」おれ あれ=「村のおきて 守(まもり 規律)」というような意味にとった
 「あれ」「おれ」は 第一人称の代名詞 「おのれ」「われ」 身近な存在(大家族 村落)のこと
 ここでは「あれ」と訓(よ)んでみた 「あれ」は「村 村守 村杜 邑礼」と書くのがよいと思う
 「あれ」は 上代語で「村」のことでもある

・「左変」は「左へ変わらせる」「左遷」「左降」=咎によって落とすこと とがめる 降ろす

・第四句「神(神祇)もしらさん」 第五句「村(邑礼)もとがめん」は並列した表現
 「神(神祇)」は(中央の)「天神地祇」に依り
 「村(邑礼 村守)」は(土着の)「氏神」「土地神」に依るものと解釈

 (訓み その2)
・「左変」さかへり=「逆へり」従わない さからう 反対する と単純に訓むこともできる
 「逆(さか)し」道理にもとる 不都合な 形容詞
 「逆へ」ハ行四段活用自動詞「逆ふ」の已然形 「り」必然の助動詞終止形

 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左変
 思はぬを 思ふと言へば 天地の 神も知らさむ 村も逆へり
 おもわぬを おもうといえば あめつちの かみもしらさん あれもさかえり

・「咎めん」と「逆へり」は 訓読のインパクトでは「咎めん」のほうが断然に上やねえ

  メモ
653 情者不忘物乎儻不見日數多月曽経去来
   心には忘れぬものを偶々(たまさか)に見ぬ日さまねく月ぞ経にける
   会いたいと思いながら はや 月日ばかりが過ぎてしまいました
654 相見者月毛不経尓戀云者乎曽呂登吾乎於毛保寒毳
   相見ては月も経なくに恋ふと言はば虚言(をそろ)と吾(あれ)を思ほさむかも
   つかの間の付き合いだけで すっかり貴女を恋しく思うようになりました
655 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑礼左變
   思はぬを 思ふと言えば 天地(あめつち)の 神も知らさむ 村(あれ)も咎(とが)めむ
   不実には 大神様も注意をなさるし 氏神様も罰をくだされるでしょう
   それを恐れぬほど 私は真剣なのですよ

大伴坂上郎女が歌六首
656 吾(あれ)のみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ
657 思はじと言ひてしものを唐棣(はねず)色の移ろひやすき我が心かも
658 思へども験もなしと知るものを如何でここだく吾(あ)が恋ひ渡る
659 予め人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥も如何にあらめ
660 汝(な)をと吾(あ)を人そ離(さ)くなるいで吾君(わぎみ)人の中言聞きこすなゆめ
661 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うるは)しき言尽してよ長しと思(も)はば

「大伴宿祢駿河麻呂」歌三首は
「大伴坂上郎女」と こんな風に「歌遊び」(贈答)をしたのですね
(どうも? おたがい 軽口なところがみえて! 半分? 本気やないみたいですね!
 万葉風「ますらおおぶり」やないねえ!)

・ 万葉集 巻四 655  は昭和50年ころ訓読したものを 今回整理しました

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